世の中は表象で動いている(by高杉公望)

 

1 世の中は表象で動いている

 そうつくづく思う昨今である。いまの日本政府のありとあらゆる分野の政策に、現実界の変容からフィードバックしたところから、悪戦苦闘して何かをつくりだそうというものは、何一つない。これは倭族のひとつの特質なのかもしれないが、ひたすら伝統的な表象の内部で自己回転しているのだ。

 ブント系は51年単独講和と60年安保改定を以て日本が自立したと勘違いしてきたが、なんのことはない、日本は幕末から国際連盟脱退までは英国の非公式的な属国であり続け、1945〜51年は米国の占領統治国、52年以降は非公式的な属国であり続けている。

 したがって、日本政府にとって、米国の世界戦略方針に歯向かうことなど選択肢としてありえない。これは冷厳なる事実としてある。しかし、日本の経済力、東アジアの経済力の大きな変容、EUの登場、アメリカのさまざまな変化と、とくに特定ブッシュ政権の大きなブレ、など現実界はさまざまな多様性と変容をみせている。しかし、自民党にあるのは、依然として、いまだに、1950年代の吉田茂ラインと岸信介ラインの暗闘なのだ。
 小泉純一郎は、岸ラインの異端児であるが、まさにそれゆえ強力な中興の祖となって、岸の外孫(安倍)に権力を継受しようとしている。小泉や福田二世はともかく、安倍や他の岸ラインに、いったいいかなる新しい現実を直視したビジョンがあるというのか。

 

 1950年代の吉田茂ラインと岸信介ラインの暗闘が、そのまま二十一世紀になっても日本の「現実政治」を規定している。倭族の国家では、その内部に属することが権力に近づくすべであるから「現実的」なことであり、国際社会や経済状況の現実を直視することは、たんに「空想的」である。十二分に『ガリバー旅行記』で風刺されるに価する。

 小泉純一郎は、岸ラインの異端児である。という意味は多面的だが、岸ラインはもちろんのこと、吉田ラインにもいまだかつてなかったような、なりふりかまわぬ対米追随路線も、その一つだといえるだろう。それだけ小泉は、岸ラインの中では異質な英米的リベラル感覚を持っているということでもあろう。

 むろん、さすがに、小泉調の中堅・若手は、岸信介のような政治思想の持ち主というわけではではないだろう。そのことが、国民に安心感をもたせ、岸ラインの中興を可能とさせている。しかし、小泉以下の中堅・若手は、所詮はじぶんたちが傍流にすぎず、いざとなったら押し流されてしまう程度の存在だということにまったく自覚的ではない。そのことによって、いま、パンドラの箱が開けられようとしているわけである。そこから、はたして「昭和の妖怪」が蘇ってくるのかどうか。不気味な予感が萌しつつある。

 小泉首相は、対米追随という理由のためだけに、戦闘状態のおさまる気配のないイラクに、丸腰状態で自衛隊員を無理矢理に派遣しようとしている。これには、タカ派の方面からも批判の声が出ている。しかし、そんなことはお構いなしだ。政府権力というものは、自動展開しはじめると、平気で人の生命を踏みにじって行くものだ。

 国立大学の法人化も、現場の実態を完全に無視して、研究条件も学生の教育条件もただ悪化することだけが確実な路線を強行突破しようとしている。

 日本の政府権力者にとっては、あるのは1950年代の岸ラインと吉田ラインの暗闘以来の表象の体系だけであり、その外部に出ることは「空想的」なのである。そして、外部の生身の人間は蹴散らされて行く。これが二十一世紀になっても倭族の法・国家の現実だ。

 

2 倭族の核武装

 むろん、圧倒的な米国の軍事力の支配下におかれている倭族の国家が、大東亜戦争のような暴走をする余地は、現在の所、まったく存在していない。
 せいぜい、政府権力者の表象のみから出てくる愚劣な政策によって、幾許かの自衛隊員の生命・身体が損なわれ、高等教育・研究の基盤が徹底的に破壊され、金融・産業がぼろぼろにされ……という平和国家にふさわしい災厄が訪れるだけである。

 ただ、米国は倭族国家の内情をどこまで洞察できているのか。米国の一部には日本の核武装を容認する向きもあるという。彼らは、倭族の法・国家を表面的に観察するだけで、西欧や米国と同じ価値観を共有しているのだから、核武装してもたいしたことはない、とタカを括っているのではないだろうか。
 彼らは、倭族の擬装した近代国家の体裁が、アメリカの圧力がなければ溶解していってしまう程度のものでしかないなどということは、夢にも思っていないのであろう。

 同じことは、倭族の若手の政治家層、知識層、一般国民にもいえるであろう。自己表象の中に棲んでいて、こんなはずじゃなかった、という「現実」につきあたることになっても、それは大東亜戦争の時と同じで、あれって一過性の「悪夢」にすぎなかったのよね、と総括され続けるのであろう。倭族にとっては、法・政治・国家は表象が現実であり、現実は悪夢にすぎないのだからである。

 倭族の人民がはじめてみずからの手に政治権力を引き寄せようとした戦後新左翼の運動がもたらした内ゲバ殺人という「現実」は、あれってやっぱり昔の過ぎ去った「悪夢」よね、もう忘れよ、ということになっているのも同じことである。倭族にとっては、平和な小市民という自己表象が現実であり、本格的に政治運動を展開しようとすると内ゲバ殺人にまで行き着いてしまうという現実はたんなる一過性の悪夢でしかないからである。

 

3 イラク支援の支持率

 七月の世論調査ではイラク支援の世論が賛成、反対ともに40数%で半々だという。ふつうなら国論二分といった状態だが、なぜだかそれほどの盛り上がりはない。

 湾岸戦争のころのPKOで自衛隊を派遣するか否かの時には、国連のお墨付きがあったにもかかわらず、90%ぐらいの反対論があったのに、今回、国連のお墨付きのない米国単独主義のイラク占領政策への「支援」に、こんなに反対がへっているのは気になる、とテレビのニュースキャスターはいっていた。

 だが、一般国民にとって、国連のお墨付きがあるかないかという判断基準は−−法的な規範意識が充分に成熟していないとすれば−−それほど重きを占めていないのではないか。
 重要な点は、一国平和主義の時代は終わったということであろう。グローバリゼーションの時代、よくも悪くも、日本が日本だけで孤立して平和を維持できるという「感覚」そのものが減衰した。

 また、アメリカにつくかソ連・中国につくかということがすべての議論の出発点となっていた時代から、はや十数年たってしまったということである。自衛隊を増強し、アメリカにつくことが、相対的にソ連・中国から離反し、それはそれで不安を呼び起こすという世界地図は、人々の意識の中でようやく歴史地図になってしまった。
 それが生きのこっているのは、石原慎太郎のような古希を迎えた世代以上の残像の中だけである。

 そして、人々は自衛隊が軍隊とよびかえられ、集団的自衛権・集団的安全保障体制のもとで海外派遣されたからといって、旧帝国日本の悪夢(石原慎太郎らにとってはいい夢)が再現するとは考えていない。なぜなら、アメリカのハイテク軍事力が圧倒的に押さえつけている今の世界において、日本のタカ派が跳ね上がったからといって、いまさらイラクや北朝鮮のような方向に舵を切ることなど不可能なことはわかりきっているからだ。(これは逆に言えば、過激派にとっても夢のない話しだ。)

 たんなるアホではないということを世界中の人々がどこにも見いだせない、小ブッシュ政権の、度はずれたやり方ではなかったならば、自衛隊の海外派遣による人道的な支援、ということを国際社会からもとめられたときに、日本社会の世論は、半々どころか、支援支持の方向に大きく傾いたはずである。

 そこに、古希以上の世代の残像にのみ存在する悪夢や亡霊をみるのか、一国平和主義を脱却しようとする日本人の前向きの姿勢を取り出そうとするのか、によって、今後の日本の政治的世界はまったく異なった色合いのものとなるはずである。

 いうまでもなく日本の全人口の0.0何%いるかいないかの「左翼」ではなく、全人口の志向性の左半分という意味での「左派」がもんだいなのだ。この全人口の左半分でという意味での「左派」の暗黙の政治的感性を、まっとうな政治的勢力へと表出する構造を造りだせるか否か、それが、日本政治がトータルとしてバランスを失って暴走することもおこさずにすむ、唯一の可能性である。

 

 だが、そこにおいて、執拗にのこる不安な要素は何か。次にそれを考えてみる。

 

4 シビリアン・コントロールの難しさ

 日本人はバランス感覚がいいのかブレやすいのか。歴史的にみるとあっという間に一方向に突っ走って大成功したり、ぎゃくに大失敗したりということが何回もあるので、わりとブレやすいのかもしれない。

 だが、他の国の歴史を読んでみると、取り立てて日本の歴史だけがブレやすいということでもなかったことはいえる。その辺の話しは、また別の機会にするとして、いまは、21世紀の安全保障意識の変化についてである。

 昭和初期、統帥権をたてにとった軍部の暴走による帝国日本そのものの自滅という体験があった。帝国日本の滅亡後、文字通り、羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く、という方向に反転して、反戦平和感情が強力なものとなった。戦前的なものが全否定され、一夜にして戦後民主主義者が叢生した。
 このあたり、日本人のブレやすさを、日本人自身に痛感させた歴史体験となった。

 このような歴史的背景があるから、日本政府が軍事力をシビリアン・コントロールするなど、ほんとうにできるのか、という不安感が払拭しきれないものとしてある。これは、わたし自身にもあり、不安感というよりも実際に不安な現実的要素はあるのだと考えておいた方が堅実というものである。

 何よりも、堅実に不安項目を忘れないでおく、というあまりお人好しではない心理構造が成熟してこないことが、不安そのものの原因である。もう、戦後民主主義と平和国家で五十年やってきたんだから大丈夫、となってすぐ図に乗ってつけ上がる。そのような精神構造のうすっぺらさと底の浅さが、日本人にのこっているかぎり、現実的に不安なのである。シビリアン・コントロールなど、まだ身分不相応としかいえない。情けないことに、米国のシビリアンにコントロールしてもらっていることが担保となって、なんとか安心していられるにすぎないというのが実態である。

 それと、日本は、非合法の軍部クーデター政治が七百年も続いていたという、これこそ紛れもなく「万邦無比」に相違ない歴史をもっている国柄である。すなわち、鎌倉幕府から徳川幕府までというのは、国際標準、グローバル・スタンダードからみれば、そういうことなのである。

 それなのに、われわれは、司馬遼太郎の小説やNHKの大河ドラマで、この非合法軍政時代の物語を繰り返し繰り返し、心に刻みつけている。自分自身が司馬遼ファンだったからよくわかるが、これは意外と危険な心性なのである。こういう心性を「国民的成心」としているような「国民」に、シビリアン・コントロールがそう簡単に使いこなせるようになるはずがないのである。

 日本の新左翼運動が、第三世界でもないのに1970年前後に総非合法・軍事路線化してしまったなどという怪奇現象が起こったのも、このような国民的成心なしには考えようのないことである。

 反戦運動をしている左翼の側にまったくシビリアン・コントロールの発想がない国で、事務官僚ひとつコントロールすることがまったく不可能なこの国の政党、議会、政府が、集団的安全保障体制にのりだしてゆくことが、不安でない条件は、アメリカが究極的にコントロールすることになっている、ということだけしかないのが現実である。
 そして、現実の直視から出発するのか唯物論である。 (2003年7月18日up)

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